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正欲(映画)の多様性を考察して解説!「気持ち悪い」と排除するものも多様性ではないのか

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Shie
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この記事では、映画「正欲」の多様性について解説しています。

「気持ち悪い」と排除するのも多様性なのかも考察してみました。

朝井リョウさんの作家10周年記念書き下ろし小説「正欲」が、2023年秋に映画化されます。

原作を読んで、衝撃を受けたとともに何とも言えない読後感が残りました。

そこで今回は、朝井リョウさんの小説「正欲」を読んだ方に向けて、ここで言う「多様性」とはどういうものなのか?「気持ち悪い」と排除するのも多様性と言えるのか?について考察し解説していきたいと思います。


映画「正欲」の多様性を解説

ここ数年でよく耳にするようになった「多様性」という言葉。

この言葉、安易に使われすぎていないか?

「多様性」の意味が軽くなりすぎていないか?

何となくそう思っていました。

この小説を読んで、モヤモヤした気持ちが晴れると同時に自分の認識は甘かった、甘すぎたと実感しました。

今回は「正欲」で描かれている多様性とは何か?を考察してみました。

あくまでも個人の見解として読んでいただければ幸いです。

「多様性」が生んだもの

「多様性」という言葉を聞いてどのようなことを感じるでしょうか?

この小説を読む前の私は、

「生まれてきた性と違う性を認識している人は苦しいだろうな、生きづらいだろうな」

「そういう人たちにも分け隔てなく接しよう、理解しよう」

と思っていました。

今では、自分はなんて傲慢だったのかと思います。

小説の中で描かれていたのは「私が想像していたマイノリティ」からも外れる、想像を超えたマイノリティでした。

小説の冒頭で

『多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。

自分と違う存在を認めよう。他人と違う自分でも胸を張ろう。

自分らしさに対して堂々としていよう。生まれ持ったものでジャッジされるなんておかしい。

清々しいほどのおめでたさでキラキラしている言葉です。

これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる“自分と違う”にしか向けられていない言葉です。』

浅井リョウ著「正欲」より

とあります。

これは夏月のモノローグだと思われますが、彼女は多様性という言葉は「おめでたさ」を生んだ、と言っています。

マジョリティに属する人間が、自分が理解できる範囲のマイノリティに対して、「わかってるよ、理解してるよ」と上から目線で投げかける言葉。

自分たちが安全な場所にいるからこそ、「だから堂々と生きようよ!」なんておめでたいことが言えるのです。

じゃあ、いざ自分の想像を超えるマイノリティが目の前に現れたら?

例えば小児性愛の人たちや人間以外のものに性欲を感じる人たち。

彼らがたとえ何の罪も犯していなかったとしても同じことが言えるでしょうか?

りと
りと

私はたぶん無理…。

この作品を読んで、自分を含めたいわゆるマジョリティが、自分たちが想像できる「多数派のマイノリティ」を括って多様性という言葉を定義していたのだ、ということに気づかされたのです。


「正欲」で描かれる多様性とは

「正欲」では、ほんとうの多様性が描かれていると感じました。

つまり、我々マジョリティの理解が及ばない思考(嗜好)を持つ人々も含めた「多様性」です。

作中では、夏月も佳道も大也も、自分たちのことを「理解してほしい」とは思っていません。

夏月は

『私は私がきちんと気持ち悪い』

浅井リョウ著「正欲」より

と言っています。

自分は社会から線を引かれる人間だと思っているので、多様性だなんだってわかった気になっている人たちがズカズカ踏み込んでくるのをとても嫌がっています。

佳道と大也は冤罪で逮捕されてしまいますが、そんな目に遭っても、検事の寺井に自分たちのことをわかってもらおうとはしていません。

どうせ理解できないだろうと思っているのです。

ここで私は小児性愛者である矢田部のことも考えます。

彼のしたことは犯罪で、許容できるわけがないのですが、「小児性愛」も含めて多様性なのではないかと思いました。

「多様性」を美しい言葉として発している人たちは、矢田部のような人間(犯罪は置いておいて、その背景にある性嗜好)のことは許容できません。

りと
りと

はっきり言って私もそうだな…

「気持ち悪い」「変態」と言って多様性の輪の中には入れてあげないのです。

人は自分で経験したことや自分の知っていることの範囲内でしか思考できません。

当然、遭遇したことのない人間やその考え方を想像するのは無理ですもんね。

そしていざ自分の想像外にあるマイノリティが現れ、それが理解できないことであれば拒絶します。

ですから夏月たちのように理解されない少数派のマイノリティはそのことを必死で隠し、多数派の社会に合わせて生きていくしかなかったのです。

このように「多様性」とは本来気軽に使っていい言葉ではなく、自分を「気持ち悪い」とさえ思ってしまう人にとっては刃でしかない。

「正欲」という作品は、そんな限定的で都合のいい「多様性」をあぶりだし、「それは本当に多様性なのか?」という疑問を突きつけてくるのです。


「気持ち悪い」と排除するのも多様性なのかを考察

本来の「多様性」とは、自分が想像しえない嗜好(欲求)を持つ人たちをも包括するものだとお話ししました。

では、そういった人たちを「気持ち悪い」と排除するのも多様性だと言っていいのか?を考察してみます。


気持ち悪いと思ってしまうことはしょうがない、でも排除は違う

「正欲」を読んで夏月や佳道たちを「気持ち悪い」と思ったかというと…

りと
りと

そうは思わなかったな。

矢田部や、小学生YouTuberを利用して自分の性欲を満たそうとする人たちに対しては気持ち悪っ!て思いました。

その捉え方は人それぞれですし、どんな風に相手を捉えようとそれは個人の自由です。

ここで問題になってくるのが「多様性」です。

いまは「多様性を認めよう!」と言って“自分以外の異質なものを受け入れて理解してあげなければならない”風潮です。

そもそもこれが間違っているわけで…。

自分以外の異質なものを含むすべてが多様性なのであり、それをまるごと理解して受け入れるなんて無理なのです。

それに、「理解してあげる」「認めてあげる」なんていうのはマジョリティ側の傲慢だし、マイノリティ側からすればいい迷惑です。

大事なのは、マジョリティが理解できないような欲求をもつ人たちがいるということを理解すること。

「気持ち悪い」と思ってしまうのはしょうがないです。

もしかしたら自分だってそう思われているかもしれませんし。

ただ、それを「排除」するのは違います。

彼らは少数派なだけで、多数派が上から目線で「認めてあげる」ような存在ではないのですから。


すべての人が「明日死なないこと」を目指していい

夏月と佳道は、それぞれ自分たちの境遇に絶望を感じ死のうとします。

誰にも知られたくない欲求を抱えながら生きてきた2人は孤独を感じていました。

「人は一人では生きていけない」ってよく言いますが、これは、生きていくには誰かの協力や支えが必要という意味と、孤独だと生きる気力を失うというふたつの意味があるんだなと思いました。

お互いが死のうとしているということがわかった夏月と佳道は契約結婚という形をとり生きていくことにします。

死を回避した瞬間ですね。

この後、ふたりは共通の嗜好を持つ人たちのネットワークを作り生きる希望を見出していきますが…

悲劇が起きてしまいましたね。

でも、「いなくならないから」「いなくならないで」という同じ気持ちでつながっていたふたり。

りと
りと

これにはホントに感動!

恋愛感情で結ばれていた2人ならこうはならなかったでしょう。

お互いをどこまでも理解し合える存在、そんな存在に出会えるなんて奇跡としか言いようがありませんね。

夏月と佳道はもう大丈夫だと思いました。

ここで物語は冒頭のモノローグへと収束していくのです。

夏月はきっと「明日死にたくない」と思いながら街を歩くことができたでしょう。

このラストを読んで自分も含めたすべての人が、どんな形でもいいから他者と繋がり「明日死なないこと」を目指してほしいなと思いました。


まとめ

朝井リョウさんの著書「正欲」で描かれる多様性とは何かを解説し、「気持ち悪い」と排除するのも多様性なのかについて考察してきました。

多様性という言葉がもしかしたらマイノリティを苦しめているかもしれず、この作品が映画化されるのはとても意義のあることだと感じています。

この作品を読んで「気持ち悪い」と思った部分もありましたが、そういう人たちの背景を思うとなんだか複雑です…。

今回は「正欲」を読んでの解説と考察をしてきましたが、こんなにも自分の思考を変えさせてしまう朝井リョウさん、本当にすごいです。

映画「正欲」、たくさんの人に観てほしい!そして私も楽しみです!

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