宮沢賢治が結婚しなかった理由はなぜ?妹トシとの関係や人柄についても調べてみた
有名童話作家で、わずか37年の生涯を閉じた文豪・宮沢賢治。
結婚も1度もすることなく生涯独身を貫きましたが、そう決めていたわけではなく賢治自身、結婚をしたかった女性はいたようです。
兄弟は5人で賢治のすぐ下には、病弱で早くに逝去した妹・トシがいました。
兄と妹としての 関係は仲が良かったのでしょうか?
賢治の人柄を探っていきたいと思います。
宮沢賢治は今でこそ有名文豪として知られていますが、 生存中はほとんど知られていない無名の物書きだったようです。
そして、妹・トシにも何かしら影響を受けたこともあり、兄弟としての関係は良かったようですね。
そんな宮沢賢治の人柄を覗いてみましょう。
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宮沢賢治が結婚しなかった理由はなぜ?
宮澤賢治は37年の人生で、ただの1度も結婚をしませんでした。
それというのも、賢治は我が命が長くはないことを予測していた可能性があるのです。
賢治は6歳のころに、流行り病である「赤痢(せきり)」にかかって2週間入院しています。
続いて1914年(大正3年)盛岡中学校を卒業しますが、4月には「肥厚性鼻炎(ひこうせいびえん)」でまたも入院。
このとき発熱もして、その熱がなかなか下がらなかったので「発疹チフス」という細菌感染症の疑いで5月末まで入院しました。
その後も「胸膜炎(きょうまくえん)」など幾度となく病に伏しています。
そんなこともあり賢治は自身は短命であると悟り、そのため結婚はしなかったのではといわれています。
宮沢賢治は恋はしていた?
宮沢賢治は結婚こそしていませんでしたが、恋はしていたようです。
賢治が恋をしていたのでは?とされているのは、賢治が1914年に「肥厚性鼻炎」で入院していたときになります。
そのときに岩手病院に入院していたのですが、その病院で働く看護婦に想いを寄せていたようです。
これが賢治の人生初めての恋・初恋でした。
ところが退院するまでの1ヶ月余りその看護婦と、1度もちゃんと会話をしたことがなかったようです。
しかし、退院してからなぜか賢治は両親にその看護婦と「結婚したい」ことを話したそうですが、両親からは「若すぎる」と反対されたといいます。
このとき賢治は若干18歳、確かに結婚するにはまだちょっと早い気はしますね。
一説によるとこの看護婦は明確なことは不明ですが、賢治の兄が病気でそのとき看護をしていた「伊藤チエ子」さんという女性だったようです。
賢治が結婚したいと両親に伝えた女性は、このチエ子さんのことだったのでしょうか。
賢治が恋心を抱いた女性は人生で後にも先にもこのチエ子さんだけだったようですので、まず間違いないかも知れません。
宮沢賢治を好きな女性もいたって本当?
宮沢賢治が恋をした女性は、入院していたときの看護婦だけだったようです。
逆に、賢治に想いを寄せていた女性も数名いたという説もあります。
その入院生活をしていたときだったかは不明ですが、一説によると女性から結婚したいような話をされて、賢治が断ったとか。
これも明確な情報ではありませんが、賢治は決して独身主義ではなかったと思います。
しかしチエ子さんへの想いがあったからなのか、それとも賢治の父が浄土真宗の篤信家だったこともあり、賢治自身も仏教に信仰がありました。
それゆえ1人の人ではなく、すべての人々に手を差し伸べたいことから、敢えて孤高の身であろうとしたのかもという説もあります。
妹トシとの関係や人柄についても調べてみた
上の写真は賢治5歳、妹トシ3歳で「小正月」のときの写真です。
賢治と妹・トシは2歳違いと年齢も近かったので、仲は良かったのでしょうね。
この写真は、叔父さまが撮った写真だそうです。
ここでは賢治と妹・トシとの関係性と、人柄について解説します。
宮沢賢治の妹トシとはどんな人?
妹・トシは賢治同様、成績優秀でした。
1911年当時、開校したばかりだった「花巻高等女学校」に入学し、クラスの級長に任命され、なんと卒業するまで級長を務め上げました。
成績も全教科において、すべての学期で学年TOPだったといいます。
3年生のとき「学年級会」というのがあり、そこでトシは開会ノ辞を読みオルガン演奏も披露したそうです。
トシも賢治と同じく文章を書くことには長けていたようです。
賢治の短歌を清書したり1920年トシが22歳のとき、その年の1月下旬から2月9日まで「自省録」を綴っています。
兄・宮沢賢治とは仲が良かったトシ
トシが日本女子大学校、そして兄・賢治が盛岡農林高等学校に進学したとき、2人は離れ離れで暮らしていましたが、毎日手紙のやりとりをしたといいます。
その内容はトシが自身の将来の相談をし、賢治がそれに答える形の内容でした。
学問に関しても相談していたのかトシは1915年に「夏季休暇ノ体験」という課題答案には、「敬愛する兄より或暗示を得た」と記されていたそうです。
トシは心から兄・賢治を敬愛していたのですね。
1921年に英語を学び、4月には教員の斡旋を受け日本女子大学校を訪れていましたが、疲労が絶えず、6月にとうとう病床に伏してしまいました。
このとき兄の賢治がトシの病に伏せった知らせを受け、急遽トシの看病をするため岩手に帰郷しました。
丁度このとき賢治は、宗教上の問題で父・政次郎と対立していたのです。
トシのことがなければ、対立中の父と顔を合わせたくないから帰って来なかったはずですが、トシの病の知らせを聞いたらそれどころではなかったでしょう。
妹想いの兄だったのですね。
トシは容体が回復せず、そのまま女学校を退職します。
1922年7月に下根子桜(現・花巻市桜町)に別宅があり、そこで療養をしていました。兄・賢治も農学校で教員をしていましたが、その帰りにここにきて宿泊します。
同年11月には、豊沢町の実家に戻りました。別宅は酷い雨漏りでトシは「あっちへ行くとおらぁ死ぬんちゃ、寒くて暗くて厭な家だ」と漏らしていたこともあったためです。
しかしわずか8日後には、トシは結核でこの世を去ります。賢治26歳のときでした。
妹・トシの死を目の当たりにし、賢治は悲しみに暮れます。
このとき賢治は妹を想い、「青森挽歌」と題して1つの詩にしています。
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
感ぜられない方向を感じようとするときは
たれだつてみんなぐるぐるする
((耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい))さう甘えるやうに言つてから
たしかにあいつはじぶんのまはりの眼には
はつきりみえてゐる
なつかしいひとたちの声をきかなかつた
にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた
それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E3%83%88%E3%82%B7)
宮沢賢治は、このあとも妹・トシの亡骸を前に筆を執り、「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」という、いずれもトシに対する想いなどを書き記しています。
上記のような昔の文字の書き方なので、ところどころ分からないところがありますが、最愛の妹を失った賢治の胸の内を書いた詩であることは間違いないでしょう。
宮沢賢治のまとめ
今回は宮沢賢治について、結婚は37年の短い生涯でただの1度もしませんでした。
そして妹・トシとは2歳違いということもあり兄弟の中で1番仲が良かったこと、兄弟の関係を超越した人として、賢治はトシを尊敬していたのかも知れません。
そんな賢治の人柄が、彼の遺した童話を読む中で感じるところです。
宮沢賢治は結婚こそしませんでしたが、ある意味理想の女性は妹・トシのような女性だったかも知れませんね。
妹とは兄妹という関係でしたが、賢治ファンの中には「ひょっとして妹を愛していた?」「好きだった?」と捉える人も少なくないようです。
賢治は優しい兄でしたから、その人柄が現世でもこれだけファンを惹きつけるのでしょうね。
1度、宮沢賢治の作品をじっくり読んでみてください。