福田村事件の加害者の子孫の現在は?生存者や生き残りの証言についても調査
1923年(大正12年)千葉県で極悪非道な虐殺事件が起きました。その事件のことを『福田村事件』と呼んでいます。
四国の香川県から15人の薬売りの行商人一行が通りかかった千葉県福田村(現・野田市)の神社で休憩中に起きた惨劇でした。
朝鮮人が襲いにくるとデマが流れたことで、福田村は厳戒態勢が敷かれていたのです。
行商人の讃岐弁を聞いて朝鮮人ではないかと疑われ、幼児・妊婦を含む9人が殺害されました。
今回は、福田村事件の加害者について、その子孫や事件当時同行していたと見られる生存者の証言、そして犯人といわれた加害者の生き残りの証言などを調査しています。
長い間、忘れられていた事件の子孫は、事件のことをどう思っているのか。
また事件の生存者で犯人という立場で生き残ったあとの生活がどのようなものだったのかを見ていきましょう。
Contents
福田村事件の加害者の子孫の現在は?
福田村事件で加害者となった人物や、その加害者の子孫の現在はどうなっているのか。
あまりに残虐な事件だったために、加害者やその子孫は事件後どのような暮らしぶりなのか気になるところです。
ここでは、福田村事件の加害者とその子孫の現在を探ってみました。
事件の加害者は8人
まず、福田村事件の加害者となった人物はそもそも何人いたのかについて探ってみると、福田村の自警団と隣接する田中村(現・柏市)の自警団で計8人いました。
いずれも元々、ごく普通の暮らしのごく普通の節度のある人物ばかりだったとか。
それがなぜ、これほどまでに残虐な事件を起こしてしまったのでしょうか。
この8人の名前も分かっていますので、リストにまとめました。
- 増田米
- 鈴木岩五郎
- 岡田孝一
- 田中朝吉
- 木村熊治
- 横銭朝吉
- 増田吉太郎
- 阪巻右衛門
逮捕されたのはこの自警団員8人だけですが、実は当時行商人一行を惨殺した自警団は、総勢200人はいたのです。
200人もの自警団に囲まれただけでも、ものすごい恐怖感があったでしょう。
そこをさらに刃を突き付けられ、自警団は四方八方から追い詰め襲い掛かり、被害者は恐怖に逃げまどい、想像しただけでも現場は正に修羅場だっただろうと思われます。
特に小さな子どもは逃げたところで、すぐに追いつかれてしまうでしょう。
妊婦もいたということですから身重で逃げるのは困難だったでしょうし、無念にもこの世に生を受けることさえできなかった胎児のことを想うと忍びない想いです。
加害者の子孫の現在
福田村事件で加害者となった自警団の8人にも、家族がおりました。
恐らく事件が起こる前、もっといえば関東大震災が起こる前までは、ごく普通の家庭の主で、妻・子どもを養う良き夫、良き父であったでしょう。
しかし震災で事態は一転、ただでさえ家を失い家族をも失いどこへ行けばいいのかもわからず誰もが混乱していました。
そこに朝鮮人が襲撃しに来るというデマが流れ、さらに混乱を招いてしまったのです。
福田村や田中村のみならず関東一体は混乱の中、朝鮮人への警戒心が強まり自警団員ともども誰もが殺気立っていました。
こちらがやらねば自分がやられる、そんな思いも働いたのかもしれません。
その結果が、福田村事件のような残虐な事件へと発展してしまったのだとしたら、考えただけでも震える想いがします。
事件後、裁判で自警団員8人は懲役2年~10年の判決を受けていましたが、昭和天皇即位の恩赦で釈放されているのです。
のちに、自警団員の指揮を執った人物は出所後、田中村(現:柏市)の村長になり、合併後、柏市の市議も務めたと四国新聞が報じています。
加害者の情報までは分かったのですが、加害者の子孫の情報については目立った情報はありませんでした。
加害者の子孫の情報については、新しい情報が分かり次第追記していきます。
生存者や生き残りの証言についても調査
福田村事件で香川県から行商に来ていた15人は、福田村の香取神社で9人と6人に分かれて休んでいたそうです。
これは、実際に事件で生き残った人の証言です。
そのときにお店の前あたりで「お前、どこから来たんだ?」となり、朝鮮人じゃないかと疑われたと。
朝鮮人による襲撃に対し厳戒態勢が敷かれており、「不審な行商人を見たら通報するように」という警告が出ていたのです。
出典元:https://minkara.carview.co.jp/
そのようなこともあり、行商人というだけで疑いを掛けられ挙句、悲劇を迎えました。
「日本人じゃ」生存者が聞いた自警団とのやり取り
襲われた15人の内、生き残ったのは6人でした。
この6人の生き残り=生存者とされる人物の証言では、自警団と行商人同士のこんなやり取りを聞いていたのです。
「日本人か?」
「日本人じゃ」
「言葉が変だ」
「四国から来たんじゃ」
当時は、ラジオもなく情報源が非常に乏しい時代でした。
そのため、地方の言葉をほぼ聞くことがなく「どこの国の言葉だろう」と感じるものが多かったようです。
日本人である証拠に、日本国家「君が代」を謳わされたり、「お経」を唱えさせられたりもしたといいます。
むろんどちらもできたはずですが、それでも日本人と信じてもらえず、惨劇に至ったようです。
事件の生き残りが手記を書いていた
福田村事件の裁判が千葉で行われたとき、手記を書いた人は香川県丸亀市の裁判所から恐らく裏付け調査のために呼ばれたといいます。
そのときに、「事件のことを話してほしい」といわれ話したそうです。
手記は、そのときの内容をまとめたものと思われます。
裁判所でも記録は作られたでしょうが、「君も書いて置いてくれ」といわれたようです。
手記は、和紙4枚に綴られていました。
この方の証言から、当時の行商団のリーダーの名前が分かっています。
行商人リーダーの名前は「合田(ごうだ)」という人です。
合田さんの家の仏壇に位牌があり、その位牌の裏には「福田村三ツ堀ニテ惨殺セラレタリ」と書かれてあったといいます。
普通、位牌に「惨殺」とは書かないでしょう。
それほどまでに深い憤りを感じていたということに他なりません。この方(手記を書いた人)は29歳だったことが分かっています。
この情報の提供者は合田さんのご子息です。
福田村事件のまとめ
今回は、100年前に起きた『福田村事件』について、これまでなかなか知り得なかった事件の加害者やその子孫、そして当時の生存者の証言などを調査してきました。
普通の家庭の人物だったはずが、ある日突然「犯人」という立場になった気持ちはいかばかりだったか?
また、生き残りとされる人物もその後の人生をどのように生きているのか。
『福田村事件』は被害者のみならず、加害者や子孫、生存者とさまざまな人の心に影を落とすことになったのは間違いないでしょう。
「犯人」「生き残り」といわれるのは、辛いことだろうと思います。
被害者は9人といいますが、臨月の妊婦もいたことから事実上被害者は10人です。
この方たちの無念は決して、私たちは目を背けてはいけません。
被害に遭われた方たちの、ご冥福をお祈り申し上げます。