銀河鉄道の父は実話どこまで?宮沢賢治の父との関係や対立していたって本当?
宮沢賢治の父の視点で描いた、映画『銀河鉄道の父』が2023年5月5日(金・祝)公開されます。
宮沢賢治はご存じの方も多いと思いますが、あの「注文の多い料理店」「雨ニモマケズ」などで有名な作家です。
この映画がなぜ「銀河鉄道の父」というか?それは、宮沢賢治の代表作の中で「銀河鉄道の夜」という童話作品があります。
そこから「銀河鉄道の夜を書いた宮沢賢治の父」という意味であるのでしょう。
今回はこの映画が実話であるのか?そして、どこまで が事実に基づいているのか?についてや、宮沢賢治は父と対立していたのか?についても解説します。
毎度、話題作の映画には必ず「実話か?どこまで?」と公開前から噂が囁かれます。
今回は、宮沢賢治と父との対立があったのかも興味深いところですね。
早速見ていきましょう!
Contents
映画『銀河鉄道の父』はどこまで実話?
今回の映画は、宮沢賢治の父親に焦点をあてた映画になっています。
宮沢賢治は少々破天荒でドラ息子的な一面もあったとされるので、そのような息子をいかに有名文豪に育て上げたのか?
そして、この映画で描かれている内容は実話になるのか?を解説します。
「銀河鉄道の父」は作者が現地取材したほぼ実話
宮沢賢治の父を題材にして書き上げたのが、作者の「門井慶喜(かどい よしのぶ)」さんです。
今回の映画に携わることで門井さんは宮沢賢治の生まれ故郷に出向き、宮沢賢治に関する情報を集めに集めて、ようやく1つの物語にしたのでした。
ということは、この映画の大部分は「実話」であるということが言えます。
しかし、実話というからには宮沢賢治の父親に関する情報がある程度揃っていないと難しいでしょう。
実際、門井さんが調べたときにも宮沢賢治の情報は有り余るほどあるものの、父親に関しては、文献など1冊もなかったと言います。
そのような状態の中で、一体どのようにして今回の映画が出来上がったのでしょうか?
作者の門井さんは、まず宮沢賢治の生まれ故郷である岩手県花巻市(旧・花巻川口町)に足を運びました。
宮沢賢治の父親の名は、「宮澤政治郎(みやざわ まさじろう)」です。
今回の映画でも、父親の名前はこの実名で役所広司さんが政次郎役を演じています。
父親の情報は「賢治ファン」でも知らない人が多いという中で、門井さんがしたことは以下の通りです。
- 岩手の農場を取材
- 地元の図書館で郷土史コーナーを探す
- 賢治が亡くなったときの岩手日報を読む
これらのことを、担当編集の方と同行して調べ上げました。
そして、帰りの飛行機の中で門井さんは「これはいけそうだ!」とホッとした気持ちだったそうです。
たった3項目ですが、これら1つ1つには何日もおそらく1日掛けて調べたと思われます。
何しろ父親に関する情報がない中で調べるわけなので、何日間か滞在しないとできなかったのではないでしょうか。
ここまでの努力をして、今回の映画を完成させた作者の門倉さんとはどのような人なのでしょう?
現地取材した作者ってどんな人?
映画『銀河鉄道の父』の作者・門井慶喜さんのプロフィールです。
本名 | 門井慶喜(かどい よしのぶ) |
生年月日 | 1971年11月2日(51歳/2023年現在) |
職業 | 小説家・推理作家 |
主な受賞作品 | 「オール読物推理小説新人賞(2003年)」「日本推理作家協会賞(2016年)」「咲くやこの花賞(2016年)」「直木三十五賞(2018年)」「銀河鉄道の父・直木賞(2023年)」 |
この他にも文学賞受賞や候補になった作品は、2018年~2000年の間で約20作品あります。
歴史小説・エッセイ・対談・評論・ノンフィクションなど、多才な持ち主です。
宮沢賢治の情報を調べる中で、宮沢賢治が父・政次郎と対立していたらしいことも映画の中に盛り込んでいます。
果たして宮沢賢治は、本当に父親と対立していたのでしょうか?
宮沢賢治は父親と対立していたって本当?
まず宮沢賢治の生涯を、簡単にまとめてみました。
1896年8月27日、岩手県花巻市で出生し、父は政次郎・母はイチの長男として生を受けます。
1902年、賢治は赤痢という感染症にかかり、賢治の看病をしていた父・政次郎も感染して以来、父は生涯胃腸が弱くなります。
1903年賢治は「花巻河口尋常小学校(1905年花城尋常小学校に改名)」に入学。
賢治の成績は大変優秀でした。
当時の通知表は、「甲・乙」で評価されていましたが、賢治は小学校の6年間ずっと「甲」で成績優秀だったのです。
この小学校の三年と四年のときに、賢治のクラスの担任だった八木英三は生徒たちに「未だ見ぬ親」や「海に塩のあるわけ」を読み聞かせ、賢治はこれに大変影響を受けたそうです。
のちに賢治は八木先生と再会したときに「私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ころにできたものです」と語っています。
1920年、賢治は図書館に通うなどしながら将来の仕事について考え始め、盛岡中学のときの同級生から詩人・萩原朔太郎の「月に吠える」を読んだりしていました。
このころ、父の政次郎に対して賢治は「東京に移住して宝石の研磨や製造の仕事で家業の転換を図る」という手紙を書くが、父・政次郎からは「実現性が乏しい」として断られ、これが元で父と幾度となく口論になりました。
※父・政次郎の仕事は、産まれたときからやっていた質・古着商を家業としていました。
宗教に入会して定職に就いていなかったことで、政次郎とたびたび口論することがあり1921年突如、賢治は東京行の汽車に乗り家出します。
そこから「法華文学」を書いたりして、徐々に物書きの仕事になっていきました。
そして1922年、雑誌「愛国夫人」12月号と翌年1月号「雪渡り」を掲載。
本格的に物書きとして有名な作品を世に送り出すまでになりながら、1931年賢治は「両側肺浸潤(りょうがわはいしんじゅん)」という肺に膿や血液がしみ出す病にかかり、病臥生活になります。
そして、1933年永眠。37年という短い生涯でした。
宮沢賢治は、一直線に作家の仕事に入ったわけではなかったのですね。
父親の家業を継ぐでもなく、定職に就くでもなく、政次郎から見るとのらりくらりやっているようで心配だったのでしょう。
宮沢賢治の父親・政次郎ってどんな人?
この画像だけで泣きそうです😭
— のんさん (@oiboNrJoXCQxFh0) March 14, 2023
#[銀河鉄道の父 pic.twitter.com/AjzsOYO9Dv
宮沢賢治の父・宮澤政次郎は、1957年3月1日83歳でその生涯を閉じています。
ちなみに宮沢賢治と宮澤政次郎の「宮澤」は常用漢字で「宮沢政次郎」とも表記されることがあるようです。
実際はどちらだったのかは不明ですが、Wikipediaでは「宮澤」の方で紹介されているので「宮澤」が正式名だったかも知れません。
政次郎が産まれたときには、既に実家は質・古着商を家業としていました。政次郎の父親の代からの家業だったのですね。
1895年に宮澤イチと結婚し、賢治を含めて5人の子宝に恵まれ賢治は1番上の長男でした。
浄土真宗の篤信家でもあったので、地元花巻仏教会の中枢会員でした。そのため毎年仏教講習会なども開いていて、1898年~1916年まで続いたとされ、非常に信仰に熱い方だったようですね。
そして長男の賢治に関しては、家業の事で対立こそしたものの賢治の学問には理解を示していました。
というのも政次郎の父は「商人に学問は不要だ」という考えでしたが、政次郎はそうは思わなかったのです。
賢治が盛岡中学を卒業して家業を生気のない顔で手伝う姿を見て、盛岡農林高等学校への進学を進めました。
このことで賢治は、水を得た魚のように学問に打ち込みます。のちに現・岩手県立花巻農業農林高等学校の教員になりました。
ここまでくるまでに、賢治は流行り病に掛かりそのたびに政次郎は看病をし、そして政次郎自身も流行り病に掛かったりと災難にも遭っています。
しかし、賢治に関しては親ばかぶりを発揮するくらい一生懸命な面が多かったようです。
子煩悩だったのかも知れませんね。
宮沢賢治と父親との親子関係ってどうだった?
宮沢賢治と父・政次郎の親子関係は、決して悪くはありませんでした。
実の父子ですから時には対立することもありましたが、政次郎は息子を愛する良い父親だったと思います。
ここからは、小説「銀河鉄道の父」から読み解ける賢治と政次郎との関係をご紹介していきます。
入院している賢治に泊まり込みで付き添う
賢治は6歳のときに赤痢という病気に罹ってしまいます。
赤痢は赤痢菌という細菌に感染する病気で、まだ衛生環境がじゅうぶんでなかった1890年代(賢治が生まれた直後の頃)に日本で大流行しました。
高熱や腹痛、血便といった症状が出て、賢治は入院するほどの重症になってしまいます。
賢治が入院すると聞き居ても立ってもいられなくなった政次郎は、周囲の反対を押し切って自ら泊まり込みで賢治に付き添います。
当時は家長である父親が息子の入院に付き添うなどあり得ない時代でしたし、赤痢に感染してしまう危険もありました。
医師の反対も退け、政次郎は賢治が腹が痛いと言えば腹を温め、トイレに立つときも介助するなど献身的に看病したのでした。
その甲斐あって賢治は無事に退院することができましたが、代わりに政次郎が院内感染し入院してしまいます。
政次郎の父・喜助には呆れられましたが、賢治が元気になったのならそれでいいと政次郎は大満足でした。
今どきの父親に引けを取らない子煩悩な政次郎。
政次郎の賢治を大切に思う気持ちがよく伝わるエピソードですよね。
祖父の反対を押し切って賢治を進学させる
賢治が尋常小学校を卒業するころ、政次郎は賢治に「中学へ進学したいか」と尋ねます。
賢治は小学校の成績がとても優秀だったので、校長が政次郎に進学を薦めたのでした。
「勉強がしたい」と賢治は答えますが、祖父の喜助が大反対。
喜助は今の家業である質屋をこれほどまでに成長させるのに苦労してきたので、「質屋に学問は必要ない」「都会に出ると浮ついた人間になる」といった持論がありました。
一方、政次郎も小学校卒業時に喜助に同じことを言われ進学をあきらめた過去があります。
「今は時代が違う」「これからは質屋にも学問が必要」と喜助を説得し、賢治の希望通り進学させることにします。
息子の希望を通したことに喜びを感じる政次郎と、進学をあきらめた父に対し申し訳ないと思いながらも感謝する賢治との親子愛が胸に沁みます。
賢治、二度目の入院
盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)を卒業する頃、賢治は「肥厚性鼻炎」の手術をします。
肥厚性鼻炎は要するに「極度の鼻づまり」で、命にかかわる病気ではないのですが、賢治の場合は手術しないと全快しないという状態でした。
賢治、二度目の入院です。
このときも政次郎は賢治に付き添いました。
手術は無事に終わったのですが、なんと賢治はチフスに罹患してしまいます。
チフスはチフス菌による感染症で、重症化すると命を落とす危険もある病気です。
そしてこのとき、賢治につきっきりで看病していた政次郎もチフスに感染してしまったのでした。
2人とも、なんとか完治して家に戻ることができましたが、父に二度も命を助けてもらった賢治はそのことに負い目を感じるようになります。
家業を継がせたい政次郎と進学したい賢治
退院し実家に戻った賢治でしたが、ほんとうは家業を継がずに進学したいと思っていました。
片や政次郎はこれ以上の学問はいらない、本格的に家業に専念してほしいと願います。
政次郎は賢治を帳場に座らせ店番をさせるなど仕事を手伝わせましたが、賢治はそれが嫌でたまりません。
でも、父に二度も命を救ってもらった負い目があるため我慢していました。
賢治は次第に痩せていき、理解しがたい言動をするようになっていきます。
このままでは賢治が壊れてしまうと思った政次郎は、ついに進学を許すのでした。
しかし、賢治が希望したのは盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)。
普通の大学とは違い農業に関する実務を教える実業学校です。
農民の力になりたい賢治でしたが、農民が富むということは質屋が貧するということに繋がります。
政次郎は、自分の仕事を否定されたような、裏切られたような気持ちを抱えてしまうのでした。
政次郎は賢治を甘やかしすぎ?
盛岡高等農林学校へ首席で入学した賢治は卒業後、少しばかりの給料で研究生として大学に残ることになります。
裕福な実家で育ったためか、倹約するとか慎ましい暮らしをするといったことができない賢治は、まともに働くでもなくたびたび父親に金の無心をしていました。
お金は遊びに使うのではなく本を買ったり友人のために使ったりしていたようです。
父の政次郎はこのことを苦々しく思っていましたが、賢治の言うままに金銭的な援助を続けていました。
甘やかしすぎだとわかっていても金を送らずにはいられない父親心なのでしょうね。
宗教での対立をする父子
賢治と政次郎の間でもっとも大きな対立は宗教に関してのことでしょう。
盛岡高農で研究生として働いていた賢治でしたが、あるとき「肋膜炎」を発症します。
肋膜炎は結核が原因とも言われており、このことがきっかけで賢治は高農を退学し実家に戻ってきました。
賢治は次の仕事として「人造宝石を作り、売る」と言い出します。
そんなに簡単に事業を興せるわけがない、資金も出さないと政次郎が反対すると、賢治は宗教にのめりこむようになります。
宮沢家は代々浄土真宗を宗派としており、政次郎は熱心な信者でした。
しかし賢治が傾倒したのは日蓮宗。
日蓮宗系の「国柱会」に入会し、父親にまで改宗を勧めるようになります。
宗派の違いで父子は激しく対立し、賢治はとうとう家を出てしまいました。
あてもなく東京に住み、安い賃金で働き始めますが生活は困窮をきわめます。
心配した政次郎がたびたび小切手を送りますが賢治はそれを一切受け取らず、送り返すのでした。
賢治の創作活動を応援する政次郎
家出して7カ月がたったころ、妹のトシが病気になったという報せを受けて賢治は花巻へ戻ります。
そのとき賢治はトランクいっぱいに原稿用紙を詰めてトシのもとへ向かいました。
賢治が書いていたのは童話や詩集。
それを病床のトシに読み聞かせるとトシは大喜びするのでした。
賢治は創作活動にめざめ、一心に童話や詩を書くようになります。
政次郎はそれを見守り、応援するのでした。
賢治の詩が雑誌や新聞に載ると周囲に自慢してまわり、ここでも政次郎の親ばかぶりがうかがえます。
そんな父の後押しもあり、賢治はいまに残る作品をたくさん書き残すことができました。
残念ながら賢治が生きている間に作品が認められることはありませんでしたが、政次郎の存命中に「宮沢賢治全集」が刊行されました。
政次郎は息子の大成を見届けることができたのです。
もし、父・政次郎が親と同じ「商人に学問は不要だ」という考えを持っていたら、賢治は現在にまで名を遺す文豪にはなっていなかったかも知れませんね。
銀河鉄道の父のまとめ
銀河鉄道の父
— りな (@momomimicoco) March 10, 2023
花巻市民限定試写、抽選に落選してマジで悲しい…..😭😭😭
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今回は映画『銀河鉄道の父』について、この物語は実話だったのか?そうだとしたら、一体どこまでが実話に基づいていたのか?
そして宮沢賢治との親子関係はどうだったか?
父として、賢治と対立する場面もありましたが、父・政次郎はその対立の陰では、宮沢賢治の父として、どこまでも賢治の味方だったであろうと考えます。
映画『銀河鉄道の父』では、どこまでも美しい親子関係が観られることでしょう。
2023年5月5日公開には、ぜひ映画館へ足を運んでみてください。