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宮沢賢治の死因は?宮沢政次郎と宮沢イチの死因や2人の生涯と夫婦の歩みも紹介

宮沢賢治と宮沢政次郎の死因は?宮沢イチの死因や2人の生涯と夫婦の歩みも紹介
Shie
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宮沢政次郎宮沢イチは、童話作家で有名な『宮沢賢治』のご両親です。

宮沢賢治は子どもの頃から病弱で、37歳でその生涯を閉じました。

ご両親は、ご自分たちが天寿を全うするより先に、長男・宮沢賢治と長女・宮沢トシという2人の愛おしい我が子を先に亡くしたことに酷く心を痛めたでしょう。

宮沢政次郎と妻・宮沢イチの死因は病死だったという説もあるようですが、はっきりした情報はあるのでしょうか。

今回は、宮沢賢治とそのご両親、宮沢政次郎と宮沢イチの死因とその生涯はどのようなものだったのかをご紹介します。


宮沢賢治の死因は?

37歳という若さでこの世を去った宮沢賢治ですが、その死因は急性肺炎でした

肺炎とは、文字通り肺に炎症が起こってしまう病気です。

この章では、賢治が肺炎に罹った経緯と、なぜこんなにも早く世を去らなければならなかったのかについて解説していきます。


賢治の幼少期から大学時代

賢治は幼い頃から、赤痢チフスといった感染症でたびたび入院していました。

今から120年も前のことなので、感染症にかかり重症になるというのはそれほど珍しいことではなかったかもしれません。

盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)に入学し、成績優秀だった賢治は卒業後も研究に打ち込んでいましたが、肋膜炎(胸膜炎)の診断を受けます。

胸膜炎とは、肺を包んでいる胸膜に炎症が起こり胸水が溜まるという病気で、癌や結核、その他感染症などが原因で発症すると言われています。

このとき賢治は22歳、「自分の命はあと15年もない」と語っていたそうです。


賢治は肺結核を患っていた

賢治は25歳のときに花巻にある農学校の教諭となり奔放に暮らしていましたが、翌年、最愛の妹トシが結核により病死します。

しばらく落ち込んで創作活動ができなかった賢治でしたが、28歳の頃「注文の多い料理店」や詩集「春と修羅」を刊行しました。

30歳、農学校の教師を辞した賢治は、かつてトシが療養していた別宅で農作業を始め、農業の講習会を開いたり楽団を作ったりしながら暮らしていました。

しかしその2年後、高熱で倒れ両側肺浸潤と診断されます。

肺浸潤とは肺胞に膿(うみ)や血液などが浸潤する病気で、かつては肺結核の初期症状と言われていました。

この診断を受け、賢治は実家に戻り療養生活を送ることになります。

療養中は喀血なども酷かったため、結核であることは間違いないでしょう。

療養生活ののち、34歳頃には病状は回復に向かい詩の制作に打ち込む賢治。

翌年には花巻の砕石工場で働き始めるほどの回復ぶりを見せましたが、仕事で上京した際に高熱で倒れ死を覚悟します。

すぐに花巻へ連れ戻された賢治は病床で、あの有名な「雨ニモマケズ」を手帳に記すのでした。


賢治の死因は結核による急性肺炎

その後は詩の制作などをしながら過ごしていましたが、1933年9月、家の前で祭りを見物した日の翌朝に呼吸が苦しくなり、急性肺炎と診断されます。

そして9月21日の朝、「南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経」と唱える声があり、父、母、弟の清六が駆けつけると、そこには大量の血を吐き苦しむ賢治がいました。

「言っておきたいことはあるか」と尋ねる政次郎に「日本語の妙法蓮華経を一千部つくり、みなさんにお配りください」と伝えると「お前はえらいやつだ」と褒められます。

清六に「おらもとうとうほめられた」と賢治が言い、まだ大丈夫だと思った父と清六は部屋を出ました。

母のイチが残り賢治に付き添っていましたが、その日の午後1時半、イチに見守られながら静かに息を引き取ったのでした。

享年37歳でした。

宮沢賢治の死因は結核による急性肺炎でした。

肺炎は、細菌感染などが原因で起こる肺の炎症です。

賢治はもともと結核を患っていました。

結核は結核菌による感染症で、この時代では多くの人が罹患し命を落としていた病気です。

結核に侵されていた賢治は肋膜炎や肺浸潤といった症状を引き起こし、最終的に肺炎となり死に至りました。

22歳のときに賢治が「自分はあと15年ももたない」と言っていましたが、死去したのが37歳なので予想がぴたりと当たったと言えるでしょう。

「15年もたない」と語った後は、人々に農業を教えたり畑を耕したり楽団を作ったり、詩や物語を制作し出版したりと精力的に活動していました。

もしかしたら賢治は、残された人生は好きなことを精一杯しようと思っていたのかもしれませんね。


宮沢政次郎の死因は?

映画『銀河鉄道の父』では、宮沢賢治の父・宮沢政次郎をベテラン俳優・役所広司さんが演じました。

宮沢賢治は政次郎にとって初めての我が子だったので、その可愛さはひとしおだったでしょう。

賢治が幾度となく病床に伏したときも、そのたびに政次郎は賢治の看病をし、そして自らも病に倒れます。

しかし政次郎は、自分が病に倒れながらも心配は賢治のことでした。

子煩悩な父親だった宮沢政次郎の最期は、1957年(昭和32年)83歳でその生涯を閉じています。

その政次郎の死因とは、一体何だったのでしょうか?その真実を探ってみましょう。


政次郎の死因は「赤痢」がきっかけ?

1902年(明治35年)、宮沢賢治が赤痢にかかり2週間の入院生活になりました。

その入院をした際、父・宮沢政次郎も看病したのです。

その日々の看病で、賢治の赤痢が感染「大腸カタル」を発症します。

このことがきっかけで政次郎も以来、生涯胃腸が弱くなりました。

このときまでは政次郎が特に大きな病気をしていたという記録はないようです。

何もなかったとするならば、賢治の赤痢に感染したことがきっかけで病弱になったのかも知れません。

しかし政次郎の死因は、赤痢の感染が直接の死因ではないと思われます。

その後も精力的に仏教の中枢会員として活動しておりましたので、死因とは考えにくいですね。

赤痢に感染したことは、政次郎の死因につながる1つの「きっかけ」だったのではないかと推測します。

赤痢の感染が死因なのであれば、政次郎はこのときに逝去していたでしょうから、赤痢は直接的な死因ではないでしょう。


2度目の病はまたも賢治の病がきっかけ?

1914年(大正3年)、またも賢治が病に倒れます。このときの病は「肥厚性鼻炎(ひこうせいびえん)」という病で、感染症ではありません。

「肥厚性鼻炎(ひこうせいびえん)」とは、副鼻腔内のヒダが腫れることで鼻づまりや嗅覚障害などを引き起こす病気です。

これで賢治はまたも入院生活を余儀なくされます。

このときにも政次郎は賢治の看病をしていましたが、そのとき再び政次郎自身も病に倒れました。

賢治の今回の病は感染症ではないため、政次郎の直接的な死因ではありません。

ただ賢治の1度目の赤痢で政次郎が感染し、その時以降、政次郎は胃腸が弱くなっていたことと、今回の賢治の2度目の鼻の病気で、日々の看病が祟っていたと考えれます。

宮沢政次郎の死因は、これまでの賢治の看病疲れがその後の身体に響いていたとするならば、実際に政次郎が亡くなったときの死因につながったのではないかと考えても不自然ではないでしょう。

宮沢政次郎の病名は不明ですが、どのような病であったにせよ、1度目からの病がかなりダメージを受けていた結果のような気がします。



妻の宮沢イチの死因は?

映画『銀河鉄道の父』では、宮沢賢治の母・宮沢イチをベテラン俳優・坂井真紀さんが演じました。

ツイートにもあるようにイチもまた非常に子どもを愛し、賢治には日々言い聞かせていた言葉がありました。

  • 「ひとというものは ひとのために、何かしてあげるために生まれてきたのス」

これが、母・イチの子育て法だったのでしょうか。

そして賢治も、その通りの人間に育ちました。

子育ての見本のような育て方だったのだなと思うと、感服の極みです。

そのような宮沢賢治の母・宮沢イチの死因は何だったのでしょう?

次の章で、探ってみようと思います。


イチの死因については不明

いろいろと宮沢イチについての情報を調べてみたのですが、夫の宮沢政次郎と同様、死因についてははっきりとした情報が見つけられませんでした。

息子の賢治や娘のトシが次々と病で命を落とし、親として大変辛い想いをしたと察します。

政次郎は宮沢家一族に病人が多く出ることについて、家業の「古物売買」に関係があるのではと思い、賢治に家業転換を期待していました。

そのようなこともあり、政次郎とイチも病死だったのかどうか明確な記述を見つけることはできませんでした。

しかし、政次郎とイチの命日は分かっています。

  • 宮沢政次郎:1957年3月1日・死没(83歳)
  • 宮沢イチ:1963年6月30日・死没(86歳)

死没した日が分かっていて、死因がなぜ記されていないのか謎です。

もともと宮沢賢治についての情報は有り余るほどあることに対し、ご両親についての情報は「冊子すらなかった」と、映画「銀河鉄道の父」の作者・門井慶喜さんが語っていました。

死没した日も、どうにかこうにか分かったのかも知れませんね。


2人の生涯と夫婦の歩みも紹介

宮沢賢治の父・宮沢政次郎と母・宮沢イチ、この2人の生涯とはどのようなものだったのでしょうか?

そして、夫婦としての歩みも非常に興味深いところです。

しかし前述しているように、宮沢賢治の情報ほどご両親については非常に情報が少なく、ないに等しいくらいです。

そんな中、宮沢賢治に関する資料などからご両親の生涯や歩みを読み解いていくしかなさそうですね。

ここからは、宮沢政次郎・イチご夫婦の生涯と夫婦としての歩みを、筆者である私の推測も含めて、感じたままに書き出してみたいと思います。

※筆者の見解や推測が混じる為、事実と異なる情報が入ることも否めません。これについては、正しい情報が分かり次第、追記することもあると思いますので予めご承知おきください。




宮沢政次郎・イチの生涯

宮沢賢治の父・宮沢政次郎は、1874年(明治7年)2月23日・父・宮沢喜助と母・キンの長男として現・岩手県花巻市に生まれました。

一方、宮沢賢治の母・宮沢イチは、1877年(明治10年)1月15日・出生で、明確な生誕地域は不明ですが、政次郎と同じく現・岩手県花巻市で生まれた可能性はあるでしょう。

政次郎とは、1895年(明治28年)に結婚しています。

2人の子どもは5人で、2男3女を儲けました。その長男が宮沢賢治なのです。

長男・宮沢賢治(みやざわ けんじ)1896年(明治29年)8月27日生誕・1933年(昭和8年)9月21日没
長女・宮沢トシ(みやざわ とし)1898年(明治31年)11月5日生誕・1922年(大正11年)11月27日没
次女・宮沢シゲ(みやざわ しげ)1901年(明治34年)6月18日生誕・1987年(昭和62年)没
次男・宮沢清六(みやざわ せいろく)1904年(明治37年)4月1日生誕・2001年(平成13年)6月12日没
三女・宮沢クニ(みやざわ くに)1907年(明治40年)3月4日生誕・1981年(昭和56年)1月12日没

父・政次郎は自身が厳格な父に育てられた経験から、自身も子どもに対して厳格でいようとするも、初めての子ども・賢治についてはあまりにも愛おしく、少々破天荒に育った賢治に翻弄され、厳格な父親像は確立が難しかったようです。

事実、賢治が赤痢など流行り病で病床にあったときも、片時も賢治の傍を離れず看病していました。

その結果、政次郎自身が赤痢に感染し、生涯胃腸を弱くしてしまうほどだったのです。

対し、宮沢賢治の母・イチは、慈愛に満ちた人柄で夫に対しては黙って従い、子どもには優しくここぞというときはしっかり言い聞かせるなど、妻・母の役目をしっかり果たしています。

一家の大黒柱は政次郎でも実は、イチが家族の舵取りをしていたのではと感じます。

賢治に対し「人は人のために生まれきた」と説いたときも、賢治はその通りに育ちました。

事実、このことで後に賢治があまりに自分のことは二の次で人のことばかり考えて行動している様を見て、イチがこんなことを漏らします。

「まあ、賢治さんはなぜあんなに人のことばかり考えてなさるのか」と呆れてそういったところ、賢治の弟・清六が「いや、それはあなたがそう育てたのでしょう」と言って笑ったというエピソードがあります。

もともと父・政次郎が仏教徒であったことと、賢治も「日蓮宗」という国柱会に入会していたこともあり、このことで政次郎と賢治は対立もしましたが、そうした宗教家でもあったので、信心深いところも関係していたのでしょう。

政次郎は、花巻で仏教会の中枢会員を務める傍ら、議員としても活動をし、1907年(明治40年)「花巻川口町議会議員」に選出され4期務めます。

妻のイチは政治家の妻として、支えていたでしょう。

加えて、賢治や賢治の妹・トシの病弱の身体のため、政次郎と協力して看病もしていました。

トシが病床にあったときもイチが看病していましたが、看病疲れで別宅へ移して療養させていました。

ここではイチとトシの妹・シゲと看護婦、そして賢治も教員をしていた学校の帰りに別宅でトシの看病をしながら寝泊りするという家族で看病をしていたのです。

そのようなことから、政次郎とイチの生涯は仏教・家業・政治・子への看病に明け暮れていたと考えられます。

そしてその大部分は、子ども中心の生活であったでしょう。


宮沢政次郎・イチの夫婦の歩み

宮沢賢治の父・政次郎と母・イチは、宮沢賢治の親だと思うから余計かも知れませんが、長男である賢治には他の子ども以上に目をかけていた印象です。

父の政次郎が、当時家業であった古着商の跡取りとして特に期待もしていたと思います。

宮沢家では、代々家業はその家の長男が引き継ぐものとされていました。それゆえ、賢治も高校のころまでは将来の自身の身の振り方などは、まったく考えていなかったようです。

そのころまでは家業を継ぐものと思っていたのかも知れません。

しかし、賢治が宮沢家の「浄土真宗」とは異なる宗派「日蓮宗」に入信したころから父・政次郎との対立が始まりました。
※のちに宮沢家は賢治の没後「日蓮宗」に改宗しています。

顔を合わすたびに政次郎と賢治の口論が繰り返され、その様子を母・イチと妹・トシが心配げに見守っていたといいます。

政次郎が心配だったのは、賢治の身体のことでした。賢治は、日蓮宗に入信してから食べる物が質素になり、肉・魚などを一切口にしなくなったのです。

口にするものは野菜が中心だったため、かなり体重も落ちていただろうと思います。

母・イチが賢治に見つからぬように、動物の血を飲み物に混ぜ良薬だと偽り呑ませたことがありました。

あとでそれを知った賢治が泣きながら「生き物の血を呑むくらいなら死んだ方がマシだ。2度とそんなことをしてくれるな」と泣き叫んだそうです。

母・イチにしてみれば我が子の身体を心配してのことでした。

しかし、日蓮宗の教えを守り生き物を食さぬようになった賢治が母・イチも心配でたまらなかったろうと思います。

父・政次郎も同じです。

だからこそ、賢治が病床に伏したときは政次郎がすっ飛んで行って看病していました。イチに看病する隙を与えなかったほどだったようです。

しかし、とうとう賢治がもうあと幾ばくも無いとなったときには、イチが今まで政次郎のすることに何一つ異論を言ったことがありませんでしたが、「最後くらいは私に看病させてほしい」と初めて政次郎に懇願したといいます。

政次郎とイチの夫婦としての歩みは、仕事も子育ても常に二人三脚で歩んできたと感じました。


宮沢賢治の死因、宮沢政次郎・イチのまとめ

今回は、宮沢賢治とその父・宮沢政次郎宮沢イチ死因生涯を辿ってみました。

総じて感じたのは、両親の生涯は波乱万丈で特に賢治に振り回されていたと感じます。

しかし、宮沢政次郎は妻・宮沢イチがいなければ、こんなに頑張れなかったのではと思うほど、自身がやるべきことに全力だったでしょう。

辛い出来事もあったものの、きっと「この家族で良かった」とそう思える生涯だったのではと感じます。




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